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話し合うって何か。 学生ボランティアとしての気づき

少しだけ僕のこと

はじめまして!
片桐 慶(かたぎり けい)といいます。
僕は、総合型選抜対策講座(前掲)の運営をお手伝いするボランティアとして、母校である日吉ヶ丘高校での学びに参加する学生の一人です。

現在は滋賀大学教育学部に通い、いわゆる教育学領域を専攻しています。この学習会を中心となって企画・運営されているやまがみ先生から学生ボランティアとしての学びにお誘いいただくご縁を得て、今に至ります。

総合型選抜対策講座を通して

すでに2回の講座が終了しましたが、それはまさにはじめの一歩と呼ぶにふさわしい「自己」を見つめる学びでありました。「自己分析」と「情報収集」を通して志望理由書の書き方のエッセンスを知る学びが2回の講義を通して展開され、僕自身改めて知る自分の謎に立ち向かう機会となったように思います。そうした中で、僕の中にも色々と湧き立つ想いが出てきますし、その想いは、共に学生ボランティアとして参加している方々との交流や、先生方を交えた議論の中でより一層豊かに僕の心を刺激します。

そんな僕自身の学びを、このnoteを通して発信、共有できればと思います。

話し合うって何か。

この総合型選抜対策講座での学びの中で僕がどうしても向かわなければならない壁がありました。
それが「話すこと」「話し合うこと」への克服です。

この総合型選抜対策講座においては、小論文やプレゼンテーション、グループディスカッションや個人面接といった受験科目に対応した学習会として、
「(高校生が)自身の考えを他者に伝えることができる」ということを目下目標とするわけでありますから、やはり学習の基本はアウトプットでのそれとなります。
したがって、必然的に

 「どう彼らに発話させるか」
 「どう彼らに対話させるか」

ということが、僕たちが挑むべき課題にあがります。

しかしながら、自己の在り様を他者に伝えるということに対して、時に大きな抵抗感を自らに覚えることがある、ということを僕は無視できません。自分のことを友達に話してみせることの”恐ろしさ”を、僕はよく理解しているつもりです。そしてそれは、その”恐ろしさ”を感じたことのある人にしか分からないものである、と言ってしまわねばならないことであろうとも思います。
ただ、そのような”恐ろしさ”をこそある意味で自らの武器となし進んでいかねば、その「真に本当な自分」は評価されることもなく終わってしまいます。

だからこそ”話さなくては”なりません。

その必要性にあって重要になるのが、自己の客体的な捉え方とその表現です。

人が自らを表現することを恐れるのは、それが甚だ主観的であり、対面する他者と自分との、もっぱらの主体と主体の衝突を予測するからです。
しかし、普通人が議論するとき、そのような主体を表に出して語ることは多くありませんし、そうした議論の在り方は避けるべきであると思われます。

人が自らの想いを発するとき、
「僕は〇〇だと思っている」
と言います。ただ、それはつまり
「僕(という人間は)〇〇だと思っている(ということが分かる)」
ということを言っているのだろうと思います。

このように人は客体的自己をそこに現すことで、自身の個人的な想いや価値観を他者と建設的に交流することができるようになるのだろうと思います。

ただ、この総合型選抜対策講座では、「今の自分」と「社会」とを密接に結びつけ未来の自分を思い描くことで自らの考えを醸成することを目指します。そうした中でいつのまにかその想いは主体化された自己にピッタリとくっ付いてしまう傾向があるように思います。
そうすると、その想いがどう受け取られるのかと不安になり、言葉にすることが”恐ろしく”なるわけです。
あるいは、それを表現することはできるのに、却って自身の想いが大きくなり過ぎることで、それを伝えることにばかり意識がいって他者の意見を聞くことがもはやできなくなる、といったこともあります。

その結果、人は自身とは違う他者を跳ね除けようとしたり、征服しようとしたりするかもしれません。一方で、その衝突を恐れ、口を閉ざしてしまったり、無理矢理に他者を称え聞き入れる何もかもを肯定しようとしたりするかもしれません。

そのような話し合いを、果たして「話し合っている」と呼べるのか、ということを僕は先ず考えずにはいられません。

まとめ

話が少し長くなりました。
まとめてみれば、

「話すこと」がなにより必要とされることである。ただ、「自分」を殊に強調させるこの特殊な学びにあって、いかに客観的な捉え方で自己を見つめ、他者と交流することができるのか。

ということを考えるべきはずであると感じます。


結局は僕の中でもこの問いに対する自分なりの答えをはっきりと言葉に表す力がまだありません。
ですから、今後の学びの中で自ら実践し、その在り方がどのようなものかを目に見える形へと落とし込まねばなりません。

だからこそ、僕自身高校生の皆さんと共に学びとっていく1人の学習者として、この総合型選抜対策講座に参加していければと思います。

その中で、今ある胸のモヤモヤが少しづつ言語化されていくことを望みます。