日吉ヶ丘高校note、「発刊」します!
はじめまして。京都市立日吉ヶ丘高校です。
このnoteでは本校の探究活動を生かした進路指導の取り組みについて生徒・教員・学生ボランティアが発信し、「探究×キャリア」をテーマに進路指導の新しい価値を提案します。
進路に関する取組の評価を量的評価だけに頼るのではなく、社会・大学・教育に関心のある人たちから広く質的に評価される場にしていきたいと考えています。
また、学校のホームページでは発信しにくい、学校に関わる様々な人の声を「一人称」で発信できる場にもしていきたいと考えています。大きな方向性となるコンセプトはありつつ、一人ひとりが自分の問いを書くことで考える、雑誌的なオウンドメディアとして「発刊」いたします。
「発刊」の思い
このnoteを運営・編集する進路部・企画部から代表教員1名ずつを出し、「なぜ教員が書くのか?」をテーマに発刊の思いを書きました。
「書く」ことが「書く」ことを呼ぶ場所を作りたい
進路部 山上隼人
僕の憧れるアメリカの国語教師、ナンシー・アトウェルの教育観の一つに「譲り渡す」という生徒との関わり方があります。
彼女は自分の成功体験や失敗体験、他の書き手や教師からの助言から学んだことを一人の書き手として教室に持ち込みます。そして生徒のかたわらで、彼らが自分の文章の課題を見つけるのを手助けします。ある時は読み手としてわかりにくかった点を指摘し、ある時は書き手として自分の書いた文章を見せて何にぶつかりどのように前に進んだかを示します。
同じ書き手として生徒に向き合う彼女の姿勢が、生徒の書く気持ちを呼び起こすのではないでしょうか。その誠実さがとても信頼できるなあと思います。
書くのって勇気がいりますよね。自分の頭の中にあるものを形にするのに戸惑ったり。読んだ人から否定されたりつまんない顔されたりしないかって怖気付いたり。僕たちは生徒に簡単に書くことを求めすぎなのかもしれません。ここでいう「簡単に」というのは「生徒が感じる書く困難さを知らずに書けて当然と思って書き物を課す」ということです。
書こうとしても形にならなかった思い、書ききれないまま完成しなかったアイデアの断片、表に出せずに仕舞い込んだ好きなものを紹介する言葉、そういった他者には届かなかった言葉の山の上に僕は座っています。それでもまた書きたくなって、自分の気持ちを確かめながら言葉をこうやってスクリーンの上に紡いでいます。
書くことで自分の知らなかった自分に気づいたり。大切に書き上げた文章がちょっと誇らしくなったり。運が良ければ自分の文章を読んだ誰かさんが仲間になってくれたりすることも書くという経験から学びました。
書く困難さも書く素晴らしさも身をもって生徒に伝えたいなあ。教員が書く場所があればなあって思い出したところからこのnoteは始まりました。
書く困難を招く条件の一つに「私を主語におけないこと」があると思います。組織の一員として書かなければいけない文章。そういったものをきちんと書くことが求められることもありますが、「私はこう思う」が書けない息苦しさってすごい。
この「日吉ケ丘高校note」は「探究×キャリア」をテーマに、校内外での生徒・教員・学生ボランティアによるそれぞれの探究活動とそれぞれのキャリア形成の「過程」をそれぞれが「一人称で書いて発信する」ことで、進路指導の新しい価値を、教育に関心のある全ての人に提案することをメインコンセプトとしています。これまでの結果だけを記録する学校ホームページではなく、先生の想いも生徒の学びのプロセスも途中で発信します。
ここは一人ひとりが何を問い、今何を考え、どんなことに取り組んでいるか、その道筋を書き残す場所です。誰かの問いが誰かの問いを呼び、誰かの書くことが誰かの書くことを呼ぶ、そんな場所になることを願って発刊の言葉といたします。
参考:ナンシー・アトウェル著 小坂敦子・澤田英輔・吉田慎一郎編訳 (2018). 『イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室』. 三省堂
教員が一人の人間として、生徒と同様に「越境」する場
企画部 豊嶋順揮
なぜ教員が書くのか。この問いを答えるのには以下の二つを考える必要があるだろう。一つは、教員とは何か、もう一つは書くとは何かである。
まずは、教員とは何かである。さまざまな考えや定義があるだろうが、私は、「教員は生徒を導く存在である。」と考えている。
では、どこに導くのか。それは、究極的に言えば「よい生き方」であり、短期的に言えば「答え」であろう。
では「答え」とは何か。それは目の前に存在する課題を克服する道筋とでもいうべきものである。ここで強調したいのは「答え」と「正解」は別物であるということである。現代は正解の存在しない時代であると言われている。世の中は複雑になっているし、目の前の課題というのは人によって異なるだろう。
それならば、誰もが真理に辿り着ける「正解」というものは存在するのだろうか。おそらくそんなものは無い。
突き詰めていけば、もしかしたら存在はするかもしれない。ただし、それは究極の真理に至るためのもので、そこに辿り着ける人間の方が存在しない。だから、目の前の課題に挑む私たちには有って無いようなものである。気にしなくてよい。だから無いのである。
目の前の課題が人によって異なるのなら、「答え」もまた人によって異なる。誰かが出した「答え」が、私の課題に対する「答え」になるとは限らない。いや、むしろ私の「答え」には絶対にならないと言ってもいいかもしれない。そのくらい異なる。(ただヒントにはなるかもしれない。)
そんな時代に生きるのだからこそ、教師が「正解」を求めてはいけないのではないか。教員その人自身の「答え」を求めなくてはならないではないか。
教員その人自身とはなにか。これは意外と忘れがちになってしまうことがあるが、他の誰でも無いその人(そしてその人はたまたま教員である)の事である。しかし、私たちは立場ではない。つまり「教員」そのものではない。そして所属先でもない。つまり「日吉ケ丘高校」ではない。もちろん「国語」でもない。これらは「豊嶋順揮」を修飾する、あるいは構成する要素の一つにすぎない。もしもわたしが「日吉ケ丘高校の国語の教員」でしかないのであれば、山上先生と私は同一の「答え」を出すこととなり、対談する意味は無くなってしまう。前述の通り、目の前の課題は異なる。「答え」が人によって異なるなら、教員の「答え」も生徒の「答え」とは異なる。ならば教員が「答え」を求めても意味がないのではないか。そういう反論があるのかもしれない。
もちろん私の「答え」が直接、誰かの「答え」になることはないだろう。それでも「答え」求める姿勢、──ある意味「答え」導くための「答え」と言えるだろうか、これを生徒に示すことが必要といえるだろう。
ただでさえ生徒たちの多くは一問一答の世界に閉じ込められている。検索ボタンを押したら、数秒待たずに正解が現れるAI的な世界は無いのだから、教員が「答え」を求める姿を見せることで、一問一答の世界から抜け出すロールモデルにすることが出来るだろう。
では「答え」を求める姿勢=「答え」を示すには、どうしたらいいのか。それこそがもう一つの問いに現れる「書く」ということではないか。
以上をまとめれば、教員は自らの「答え」を出し(ここでは書くでまとめたが、違う方法もあるだろう。というか授業がそれである。)、「答え」を求める姿勢を示すことで、生徒を生徒自身の「答え」へ導く存在と言えるだろう。
「書く」とはどういうことか。この問いも考えていきたいが、約束の文量を超えてしまったので今回はこれで終わりにしたい。
あれやこれやと、めんどくさく述べてきたが、発刊の思いとして無理矢理にまとめると、書くことを通して教員も「越境」(探究を含む複合概念)をしていき、生徒にとっての「越境」のハードルを下げていけたら良いと思っている。なんとなくノってしまい約束の倍も書いてしまいました。考え出すと楽しいものだ。そして止まらなくなる。生徒も教員も書いて読んで考えて、勉強を楽しいものにしてほしい。学びとは本来楽しいものであったはずだ。ここが教員にとって、生徒にとって最高の「越境」の場になりますように。